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2024.1.22 07:00ゴー宣道場

倫理と法律の関係 その1

おはようございます。三味線です。

プロフィールにもある通り、私、本業の傍ら、柄にもなく技術者倫理(工学倫理)の講師などもやっています。(ごく一部から、経歴詐称じゃないのか!という声があるようなので、今回は少し真面目に)

7,8年くらい前まで、中国地方○○県の上級技術職員研修の倫理講師として隔年で呼ばれていたのですが、安倍晋三への忖度が職業倫理に悖ることや、「公務員」がおらず「私務員」や「集務員」だらけになっていることを説明してたら、一昨年だったかふと気づいたら、いつの間にか話がこなくなってました(笑)

「技術者倫理」というと、馴染みがないかも知れませんが、学問体系的には、実際に起こり得る事例に適切に対処するための「応用倫理学」の範疇になります。たとえば、最近ではダイハツ工業の不正などがその対象になります。私たちが学生の頃にはそういった講義は全くありませんでしたが、現在は多くの工学系学部学科で実施されています。

近ごろは、法律こそが正義や善悪を決めるといった風潮が実に強く、「倫理は法律には書かれていなくてもルールを守れってことでしょ」、「『和を以て貴しとなす』のように周囲に馴染んで争わないようにすることでしょ」、といった声を聞くたびに、倫理や哲学の端くれにいる者として、ちょっと悔しい思いをしています。(´・ω・`)

では倫理は法律と何が違うのか、改めて辞書で調べてみました(デジタル大辞泉,一部略)。

【倫理】
①人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。
②「倫理学」の略

【法律】
➀社会秩序を維持するために強制される規範。法。
②国会の議決を経て制定される法の一形式

ついでに、

【道徳】
➀人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。
②小・中学校の教科の一。生命を大切にする心や善悪の判断などを学ぶもの。
③《道と徳を説くところから》老子の学。
(あ、道徳(横方向の規範意識)の話は、話の混乱を防ぐため、ちょっと脇に置いておきましょう)

超大雑把に言えば、法律は社会秩序の維持が主目的倫理は人間が行う善悪・良否・優劣の普遍的な判断をする、あるいはその基準づくりが主目的、と言えます。そもそも目的からして別モノなんですね。倫理は、よしりん先生風にいえば「価値の序列付け」のことです。和辻哲郎風にいえば、「倫」は「イ」にんべん+「輪」(和)、つまり人の和の理屈(論理)なのだそうです。アリストテレス大先生によれば、決断・実行を伴ってはじめて倫理といえるとも。

物事の善悪・良否・優劣(「価値の序列付け」)なんか簡単に判断できるじゃないか!と思うかも知れませんが、実は買い物一つとっても、一筋縄ではいきません。たとえば、商品を通常より安く提供してくれる営業は、客にとっては「善」ですが、本来よりも少ない額しか稼げない会社にとっては「悪」かも知れません(「オマエ、何やっとんじゃボケ!!」などと上司から叱られる)。また、コーランを冒涜した者が殺されるのは、法的には殺人罪ですが、倫理的には十分な考察が必要です。

倉持先生のyoutube『このクソ素晴らしき世界』や、笹先生との『ササクラ会議』でも、倫理や法律にまつわるジレンマ問題や功利主義(幸福量を計算可能と考え、最大多数の最大幸福を目指す考え方。簡単には多数決)の問題がよく採り上げられますね。https://www.nicovideo.jp/watch/so43124044

では、倫理と法律はどのような関係にあるのかというと、現時点で広く言われているのは、法の足りないところを倫理が補い、倫理の足りないところを法が補うという「法と倫理は補完関係にある」説です。
https://www.maruzen-publishing.co.jp/item/b295016.html
https://www.mext.go.jp/component/a_menu/science/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2014/07/14/1349636_04.pdf

しかし、先に示した辞書的な意味や、それぞれの目的、私たちの常識(歴史感覚)からみると、人間(社会)は、倫理と法律に補完関係が成立するほど単純、性善説ではないのでは?という疑念が拭えません(権威主義にひれ伏して誰も言わないので、この自由な「ゴー宣DOJO」の場をお借りしてコッソリ言ってしまおう!)

たとえば、ロシアや中国や北朝鮮のような権威主義独裁国家では、国家がどんなに悪であろうが、どんな悪法が布かれていようが、それを補うはずの倫理は正常には機能しません(むしろその悪を補完・強化するのが「倫理」とされてしまいます)。日本国内でも、どんな悪法であっても法に従うのが正義や善となれば、ソクラテスのように毒杯を呷るしかなくなってしまい、やはり倫理は機能しません。

逆に、倫理の不完全を法律が補完できるかというと、安倍昭恵氏の遺産相続(≒悪質極まりない脱税,国費窃盗)のような極めて悪質・人倫に悖る卑劣な行為であっても、法律に明記されていなければ、それを補完することは不可能です。

このように、どうもこの「法と倫理は補完関係にある」説というのは、法律方面と倫理哲学方面の双方にイイ顔を振りまいて、なかよちゴッコさせるような堕落も感じて、なんだか信用できませんね。(p_´)

では、法と倫理が補完関係でなければ、どのような関係になるのかを考えてみると、以下のような構図になるのではないでしょうか。

 

法曹関係者からは「オレらを軽視するな!」と大いに怒られるかも知れませんが(笑)、広大(無限遠)な倫理空間や哲学空間の上に、ごく小さな法律空間がちょこんと乗っかっている構図です(あ、もちろん批評は大歓迎です。法哲学者とはちょこっと仲良くなれるかも。笑)。

上図では、強制性のある法律の正当性を、倫理(や哲学)が検証・担保する構図になっています。つまり、法律は倫理的であるべきことを示しています。また、法的な違法合法の判断と、物事の善悪・良否・優劣の判断(価値の序列付け)は、決して同じではなく、別々に考えなければならないことを示しています(示しているつもりです)。

世界中どこでも通用する普遍的な倫理といったものは存在しませんが、少なくとも、国家や地域ごとに明らかに異なる法よりかは、歴史的裏付けも人間的な普遍性もあるはずです。もちろん、倫理には法律のような強制力はありませんが。

では、その「倫理(や哲学)」は誰が決めるのか??

それは、誰かが権威主義的に決めて全員がそれに従うというよりも、よしりん先生が常々仰っているように、その土地(地域)の確固たる歴史や経験によって決まってきます。さらに言えば、それらに根ざした文化や信仰が決めるものでしょう。倫理は文化や信仰個々が都度推察して判断するものだと考えているのですが、それはまた回を改めて。

こんな不道徳の見本のようなワタクシが倫理について真面目に語るのも何だか笑える話ですが(一部は爆笑してそ。笑)、また今度、倫理と法律やそれらの源泉についてさらに掘り下げていきましょう。

 


【三味線 プロフィール】
生業の道路・河川・港湾等における電気通信設備設計の傍ら、大学等で技術者倫理,エンジニアリング・デザイン(設計論)の非常勤。酒と煙草と本と映画と音楽とブラックユーモアを愛し、差別と偽善と全体主義が嫌いなノラ猫型。趣味は多趣味。ゴー宣DOJOでは主にPA廻りを担当。

 

 


 

 

【トッキーコメント】
今や日本では「法を超えて」ジャニーズを叩き、「法を超えて」松本人志を叩くのが当然のように行われているわけですが、それが法律の不足を倫理で補って行っているものなどでは全くないことなど、言うまでもありません。
法も倫理も失って、集団ヒステリーによるリンチが横行する現代、これ以上の劣化を食い止めるためにも、倫理と法律についてしっかり考えていくことは今、非常に重要なことだと思います。

 

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